酒物語:インド―禁酒と増税のはざま

多田博一

インド人は酒嫌いか

日本で日常的に酒に親しんでいる人は、インドを訪れると不便きわまりないと感じることであろう。日本のように居酒屋、バー、キャバレーが軒を並べている風景やほとんどすべての飲食店でアルコール類をサービスするということは、インドの都市ではみられない。ましてや、女性がはべり、酒をつぐなどという光景はけっしてみられない。ホテルのバー以外に自由に飲める場所がほとんどない。これはインド人の間で飲酒は悪徳であるという意識が強く、はっきりした統計はみあたらないが、飲酒人口の割合が小さいこと、さらに政府の規制が厳しいことによる。

インド人がもともと酒を飲まないというのではない。バラモン教やヒンドウー教の文献はいうまでもなく、飲酒を禁じているはずの仏教文献にも飲酒の様子が描かれている。イスラーム教の聖典であるクルアーンも禁酒を命じているが、ムガル時代には飲酒が盛んであった。あまつさえ、ムガル朝政府は酒に課す物品税(アーブカーリー:アーブは本来水の意で、転じて酒を意味する、カーリーはそれをつくること)を歳入源の重要項目の一つにしていた。これはいわば請負制であり、入札により最高額で応じた者に酒類製造・販売の権利を与えていた。

禁酒と税収増加のディレンマ

インドを植民地化したあと、イギリス植民地政府は歳入確保の目的でこの制度をほとんどそのまま引き継いだ。しかし、ヴィクトリア朝時代の本国イギリスで盛んであった節酒運動の影響もあって、最小消費、最大税収が目的にされた。地方ごとに事情が異なっていたために、それに応じてムガル朝時代の請負制のほかに、定額税制も導入され、両者が組み合わされて複雑な物品税制度ができあがった。さらに、1919年インド統治法にもとついて酒類に対する物品税は州政府の管轄事項にされた。これは独立後のインド憲法にも継承されており、税制、税率の面で州間の差異が大きくなってきている。

飲酒が悪徳である、という観念を広めるのに力を尽くしたのはマハートマー・ガンディーであった。かれの影響のもとに独立運動時にインド国民会議派は禁酒を党是とするようになった。1935年インド統治法にもとついていくつかの州政府を掌握した国民会議派は実際にその政策を実施に移し、酒店舗数の制限、販売時間の短縮、アルコール度の引き下げなどを行った。それが独立後も受けつがれて、1950年に施行された新憲法の『第4編国家政策の指導原則、第47条栄養水準および生活水準の向上ならびに公衆衛生の改善に対する国家の任務』にはこう規定されている。

「国家は、国民の栄養水準および生活水準の向上ならびに公衆衛生の改善を至上義務の一つとしなければならない。とくに国家は、医療上の目的に用いる場合を除き、保健に有害なる酒類または麻薬の消費を禁止するように努めなければならない。」

しかし、同時に憲法第7付則第2表州管轄事項表第51項にはこう規定されている。

「州内で製造し、または生産されたつぎに掲げる財に対する物品税およびインド内の他の場所で製造し、または生産された同種の貨物に対する同率またはそれ以下の平衡課税
  • (a)飲料用アルコール
  • (b)アヘン、インド大麻ならびにその他の麻酔性薬品および麻酔剤
ただし、アルコールまたはこの項(b)号に掲げる財を含有する医療用または化粧用の薬剤は除く。」

独立後の政策の変遷

新憲法にもとづきいくつかの州では州内のヒンドウー教の聖地の所在する県など数県で禁酒を実施した。1961-62年第三次5力年計画の開始にあたり、インド中央政府は禁酒による物品税の減少額の50パーセントを州政府に補償することを約束し、これは1972年まで継続された。1961年になるとマハーラーシュトラ、グジャラート、マドラス、アーンドラ・プラデーシュの4州が全面禁酒に踏み切った。筆者が最初にインドに行ったのは1962年のことで、マハーラーシュトラの州都ボンベイやマドラスを訪れたとき、州政府出先機関に外国人旅行者用の飲酒許可証をもらいにいったことを覚えている。他の州では酒類を販売しないドライ・デイ(禁酒日)を設けたり、一部地域を禁酒に指定したりした。しかし、税収増加の目的で禁酒政策を放棄する州がでてきた。

インド政府は1965年4月に禁酒問題を検討する委貝会(委員長の名前をとって通称テクチャンド委員会)を任命した。この委員会は1975-76年までに全国を禁酒地域にする12年にわたる段階的計画を勧告した。多くの州は同委貝会の勧告を原則的には受け入れたけれども、財政上の困難から目標期限までに禁酒を実施することは不可能であるとした。1971年時点で全面禁酒を続行していたのは、マハートマー・ガンディーの出身地であるグジャラート州のみであった。

1975年10月インディラ・ガンディーの率いる中央政府は全面禁酒の準備として、ホテル・レストラン・クラブでの飲酒や酒類宣伝の禁止など12項目計画を発表した。1977年に政権についたジャナタ党もガンディー主義者のデサイ首相のもとで禁酒政策を継続した。しかし、同首相の出身地であるグジャラート州以外には全面禁酒に踏み切る州はなかった。ウッタル・プラデーシュ州では19県で全面禁酒を実施したところ、密造、違法飲酒、密輸が頻繁に生じるようになった。最近はむしろ解禁の方向にむかっている。

主として酒類に課されている物品税は1989-90年度の全インドの州税収総額の15パーセントを占めていた。

インドの酒の種類

さて、すでに述べたように、物品税の制度・税率は州ごとに異なっているので、ここではウッタル・プラデーシュ州の例をとりあげよう。この州ではイギリス統治下の1910年に制定された物品税法が必要に応じて修正されながらいまだに効力をもっている。そのなかで課税対象になる酒類をつぎのように分類している。

  1. ビール:モルトから醸造したアルコール、スタウト、ポーター、その他すべてのアルコール飲料。
  2. 地酒(countryliquor):
    1. 地酒のもととみなされている物質、すなわちマフアー花(Bassialatifolia)、米、グロール・モラスからインドで造られる清酒または香辛料を利かせた酒で、インドへの輸入酒に定められている率で税を課されていないもの。
    2. ターリー(tari)
    3. インド的方法でもってマフアー花、米、ヒエ、その他の穀物から造られたすべての発酵アルコール飲料。
  3. 外国酒(foreignliquor):
    1. 輸入関税を支払ったのち人々による消費のためにインドに輸入されたビール、アルコール、ブドウ酒およびアルコール飲料。
    2. インドで製造されたが、輸入酒類と香り・色を似るように仕上げられた、または色づけされたアルコール飲料。
    3. インドで醸造されたビール。
    4. インドで製造されたブドウ酒および種類。
  4. パチワーリー(pachwari):米、ヒエから醸造された酒。

酒市場の二重構造

このなかでインド在来のもので、低所得層の間でもっとも人気のあるのがターリーである。これはナツメヤシ、パルミラヤシ、ココナツヤシから採取した樹液が9-12時間自然に発酵してできるもので、アルコール含有度は3~8パーセントとビールなみである。これに対する課税は採液権の競売、樹木一本ごとの定額税などの方法がとられている。

やや所得があがると、地酒類にうつる。ボンベイにはこれを専門にするバーがある。1992年1月に新聞・テレビで報じられたので、記憶しておられる方があるかもしれないが、この地酒にメチル・アルコールが混入されていたために、男女合わせて90人ほどが死亡するという事件があった。同じような事件は低所得層の結婚式などでも発生しており、ときどき新聞をにぎわせる。

これに対して、上層の人々は国産洋酒であるビール、ウィスキー、ラムなどを好む。ビールの人気銘柄はブラック・ラベル、キングフィッシャー、ピンキーペリカンなどである。1987年のインドのビール生産量は150万ヘクリットルであり、日本の37分の1にすぎなかった。輸入品は関税率が高いために、非常に高価である。

デリーではまだ女性が外で食事をすること自体はしたないとみなされるところがあり、レストランやホテルのバーでむくつけき男性だけが向かい合って飲んでいる光景はなんとなくわびしいものであるが、風俗習慣の違いでこれはいたしかたない。だが、さすがにボンベイでは生ビールを飲ませる近代的なパブも出現しつつあるようである。

ボンベイ市内のパブ風景

初出誌情報

多田博一 1992「酒物語:5.インド―禁酒と増税のはざま」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第2号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.121-124.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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