市・市場:パーキスターンのバーザール~カラーチーとペシヤーワル~

片岡弘次

1.年に一度のバーザール

東松山の大東の図書館に10日遅れ位であるが、パーキスターンの英字新聞「ドーン」が来ている。5月の初め、4月22日の「ドーン」の中につぎのような記事を見た。「5月21日。イードの月の眺めで犠牲祭用の家畜市が市をにぎわしている。

家畜やその売り主、買い手がバーンス・ロードの地区、特にS.M.ロー・カレッジやD.J.サイエンス・カレッジの前で、日曜日に道をうずめている。

スィンドやパンジャーブの内部から来た家畜商がたくさんいる。彼らの主な滞在地はソホラーブ・ゴートで、そこで毎年大きな家畜市が立つ。

ノース・ナーズムアーバードから来た2人の買い手はソホラーブ・ゴートの市で牛を1万3000ルピー、子牛を7000ルピーで買った。専門家の話では普通の値段だと言う(1ルピー、約3.5円)。

しかし他の小さい市と同じように、バーンス・ロードの市ではかなり値段が高い。よくふとった牝牛は2万5000ルピーだった。その売り主はサルゴーダーから来たと話した。そこから数メートル離れた別の売り主は1万4000ルピーで売っていた。彼はデーラ・ガーズィー・カーンから牝牛を連れてカラーチーに来ていた。

ディヘンス・ハウズィング・オーソリティーにあるイスラーム寺院の前の広場でも伝統的な犠牲祭用の家畜市が毎日立つ。かなりの山羊がここで売買されている。

大きめの山羊を連れて来ている売主は1頭6000ルピーで売っていた。しかし2人の若い買い手は4000ルピーにまけさせて買った。その売り手はスィンド州の内部から連れてきて、カラーチーに住んでいる人であった。

近くで山羊のつがいを1万ルピーで売っている人もいた。それは骨と皮だけの山羊に見えた。30頭連れてきたが、2匹だけ売れ残ったと言った。そこでできるだけ早く処分したいと言っていた。他のつがいは1匹つつだと6000ルピーだと言った。

チョードリー・カリークザマーン通りにあるデリー・コロニーの路上でも市が立っていた。サーンガル地区から来た売り主は大きな山羊を80頭連れてきたと言う。山羊の値段を聞いてみると、1頭5500ルピーだった。1番小さいのは3600ルピーだった。

村で大きめのを1頭5000ルピーで買ってきた。連れてくる際ほし草と水で、300ルピーかかった。1頭につき2、300ルピーずつもうけようと思っている。もしうまくいかないとイードの最初の日までに売り切れない。その場合には持ってきた値段で売らなければならない、と彼は言った。

同じ路上でやせた山羊を1頭3500ルピーで売っている人がいた。ジュマー・ゴートから50頭買ってきたと言う。彼はキャントン・レールウェイ・ステーションの近くに住んでいる人だった。そしていつでもその商売をしているということではなかった。

この商いは新月の出るチャーンド・ラートまで続ける。その後はいつもの商売をする。しかしいつがオフ・シーズンかは言わなかった。

リヤーリー川の近くに有名なバクラー・ピーリーの市が立っていたが、それはハブ川沿いのムワーチ・ゴートの方に移ってしまっていた。以前、立った市の近くの川岸が、今もなお犠牲祭用の家畜の有名な市となっている。

小さなものは、コーランギー・クロッスィングにもある。37頭を連れてきた売り手は、普通の時は肉屋であるので、売れても売れなくてもかまわないと言っていた。

もしいい値で売れればいいし、もし売れなくても、店で肉にして売れるからと楽しそうに言っている。

これは年に1度、カラーチーのいたる所に立つ犠牲祭用の家畜市の光景の記事である。山羊や羊が道路沿いの空き地に集められ、首や背中に赤やピンクの色が塗られて売られる。

この家畜市を初めて見たのはもう大分前のことであった。そこで「あした殺してみんなで食べるんだ」と聞くと、赤やピンクの色がつけられて買い手を待つ山羊や羊がなんともあわれに思えた。値段がつけられ、買い手に引かれていく後ろ姿には、山羊や羊ではあったが、あしたのことが直観的にわかるのか幾分気落ちしているように見えた。最近までその赤やピンクの色は売り手がつけた化粧だとばっかり思っていたが、他の売り主の山羊や羊と区別するしるしであった。

今年の犠牲祭は4月28日から3日間であった。この時期になるとパーキスターン中に家畜市が立つが、カラーチーの日本文化センターの安宅さんの話によると、カラーチーには犠牲祭の1ヶ月前頃からスィンド州内陸部やスインド州に近いパンジャーブ州、バローチスターン州から家畜が流入してくると言う。売られる動物は山羊と牛が主であるが、羊も売られ、ラクダも場所によっては売られると言う。

家畜市は市内各地に立つがカラーチーで1番大きな市はソホラーブ・ゴートのである。

犠牲祭に動物をアッラーに捧げるのはイスラーム教徒の務めで、その肉の3分の1を各自で使い、残りを施したり贈ったりすることはよく知られている。「買った動物は、スズキの軽トラックで運ぶのが普通で、数が多くなるとマツダの中型トラックで運びます。トラックは家畜市にたくさん駐車しており、すぐに手配できます。ですが運賃の交渉がやっかいで、家畜の値段は当地のインフレを反映して最近、大幅に値上がりしています」と安宅さんは言う。

犠牲祭の1週間前後から犠牲祭の前日までが値段が最も高く、犠牲祭の2日目から少し下がり、3日目は安くなる。売れ残った山羊や牛は再びもとの場所へ連れ戻すことはしないで普通肉屋へ売られる。

犠牲祭の朝、屠殺する様子を知り合いの人の家へ見に行ったことがあった。庭の木に宙づりにされ、子供たちが見ている中で、屠殺の専門家が手際よく処理していた。

しばらくするとその肉がぐつぐつ煮られ出てきたが、子供の時、雪の日の夕方、家の鶏をつぶして食べたことが思い出された。犠牲祭用の山羊や牛の値段がその前後で変わるように、屠殺・処理代も変わる。最近では山羊の処理代が犠牲祭の初日だと1頭600ルピー、2日目、3日目はそれぞれ400ルピー、300ルピーと安くなると安宅さんは言う。

毛のついたままの皮は路上の各所に集められ、それを政党や社会福祉施設の人がスズキの軽トラックで各所から無料で集め回り、資金源としているとのことである。

2.日々の生活の中でのバーザール

人が5、60人いる居住区なら必ずイスラーム寺院があるように、毎日の生活を支える肉屋や雑貨屋はどんな小さな居住区でもある。

カラーチーは大都会でパーキスターンの各地域から出稼ぎに来ている人が多い。市内では種々雑多な地域の出身者が入り乱れて仕事をしているが、地方から出て来た人は同郷の人どうしでできた居住区に住んでおり、経済力のない人程その傾向が強い。このような同じ地域出身者でできた居住区では、着ている物も食べる物もそっくりそのまま出身地域から持ってきたような物が多く居住区ごとに特色があり、店に置いてある物にも居住区ごとで微妙な違いがある。

カラーチーに行き、友達が1番はじめに連れて行ってくれた所は、サダルのエンプレス・マーケットだった。そこには肉屋あり、魚屋あり、八百屋あり、香辛料屋ありで、何でも手に入る所だった。道は迷路のようで、すると後から「だんな、だんな(サーハブ サーハブ)」と呼ぶ声がする。振り向くと、ヤシの葉っぱで作った大きな買い物かごを肩にかけ、そのかごを指さして老人がにっこり笑って立っている。友達が「行け、行け(チャロー チャロー)」と言うとうらめしそうに去って行ってしまった。が、バーザールには買った物を運んでやるのを商売にしている人もいたのだ。

建物はヴィクトリア女王の何かの25周年を祝って建てられたと言うことで、入り口には時計台が立ち立派である。

いつ行ってもそこはごったがえしているが、女性の姿がほとんど見あたらない。時おり見かけるとしてもわれわれ日本人や違う国から来た女性である。カラーチーに行き間もない頃、アブー・ライス・スィッディーキー先生に一度そこで出会ったことがある。アブーライス先生はパーキスターンでも非常に有名な先生で、当時カラーチー大学の文学部長だった。その先生が野菜のはみ出た買い物かごをさげて出てくるのである。日本ではあまり見かけぬ光景だが、パーキスターンでは男性がキュウリやトマトを買いに行くのである。

エンプレス・マーケットはカラーチーのど真中、東京で言えば渋谷や新宿、池袋の一番にぎやかな場所にあるマーケットである。このマーケットのわきに細い路地があり、そこに公衆便所がある。その便所はいつ行っても待たなければならない。小便を立ってする人が3分の1、座ってする人が3分の2。この20年間、人のいない時はなかった。それが20年目にして人っこ一人誰もいない時に出っくわしたことがあった。誰もいない、どうしてかと一瞬、自分の目を疑ってしまった。それは今から5年前、ラマザーン(断食月)の時で、その日の断食がとかれる日没直前であった。人々は買い物の後家路へと急ぎ、空腹を忘れ小便へ立ち寄ることも忘れていた時だった。

カラーチーは18世紀まで小さな漁村であったが、港の発展と共に商業と工業の中心地となった。1891年に人口9万8000にすぎなかったが、1941年には35万9000に増加し、独立後、インドからの難民流入で111万9000となり、1981年に520万8100、そして現在では800万位に増加している。

この人口をまかなう青果市場は大学通りにあるサブズィー・マンディーである。野菜の大半はカラーチーのマリール地区やスィンド州内陸部からトラックでそこに運ばれてくるが、マリール地区からは夜ラクダが運んでくる分もある。果物はそれぞれの産地からトラックで運ばれて来る。それをサブズィー・マンディーの青果市場で小売業者が仕入れる。このような青果市場はカラーチーではこのサブズィー・マンディーだけである。

日常の生活の必需品である衣料などの購入はその品物によって同じ商品を扱う商店がかたまってある。たとえば綿類のシャッやドレスを扱う所はザイナブ・マーケット、金銀細工はサラファー・バーザール、古い衣料はジュナー・マーケット、書籍はウルドー・バーザール、オートバイの類はサダルとウルドゥー・バーザールの間、電気製品もウルドゥー・バーザールの近くでという風である。またサダルのエンプレス・マーケットからすぐ近くにはなんでも手に入るボーリー・バーザールなどがある。

ここ数年来、目立つことは空地などを利用し政府のテコ入れで、製造業者直売のバーザールが曜日をきめて立つようになったことである。

最近カラーチーはマンションの建設ラッシュで、大学の先にまでマンションが建ちつつある。大学は砂漠の真中にあり、かつては市内からカラーチー大学に行くのに何もなかった。それがバスで30分の道のりの間に人口増の影響を受けてマンションが立ちならび、その間をぬって新しいバーザールが立ち始めている。

1990年にカラーチーに行った時、初めてジ・マー・バーザール(金曜市場)と言う言葉をきいたが、それは刑務所と大学の間にある空き地に開かれたバーザールであった。

この種のバーザールは故ズィヤー・ウル・ハック大統領が始めたもので最初は、1979年~80年頃イスラーマーバードから始まり、それれの製造業者が集まっての直売型式であった。

ジュマー・バーザールと同種類のパーザーにイトワール・バーザール(日曜市場)、マガル・バーザール(火曜市場)などがある、バーザールが立つその日の曜日が、バー,一・ルの呼び名になっている。その中に最近は市内の商店も参加して、品物は衣類、菓類、電気製品などなんでもあり、町より安値になっている。

エンプレス・マーケットは一般の居住地から遠いせいもあってか女性客の姿はほとんど見かけないが、この様なバーザールにはその辺に住む女性客の姿が目立つ。ここには女性隔離の風習は関係ないらしい。ジュマー・バーザールは大学通りの1ヶ所にあるだけでなく、他にもカラーチー市内で5、6ヶ所で開かれている。

NHKのテレビでカラーチーの女性銀行のゆとが紹介されたが、アキール先生の話によれば、女性だけが出入りできる女性だけのバーザールもここ数年来、開かれていると言う。

3.おとぎ話に出てくるようなバーザール

パーキスターンのバーザールで最もわくわくするバーザールはペシャーワルのキッサ・カバーニー・バーザールである。昔、この場所は隊商や軍隊の野営地でそこに専門の語り部がおり、戦いや恋物語の話を語ってくれたと言う。今日その語り部はいないが、東西1.5km、南北1kmにわたり銀細工や骨董品の古い店が立ちならんでいる。古びたランプや銅製品を売る店には、まるでムガル朝ヘタイムスリップさせられたかのような風情がある。

ここにはさまざまの人種が集まっている。アフガン人もいれば、日本人そっくりの人もいる。イラン系、ウズベク人、タジク人などが華やかな民族服姿で歩き回っている。ライフルをぶらさげて買物に来ている人もいれば、自分よりも大きな荷物をしょって歩き回っている子供も見える。いる人はみんな男で、そこは男だけの町のように見える。

迷路のような入り組んだ小道が多く、やみくもに進んでいくと、戻にもどってこれなくなるような気がする。

初出誌情報

片岡弘次1996「市・市場:9.パーキスターンのバーザール~カラーチーとペシヤーワル~」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第6号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.139-143.

お読み下さい

ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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