酒物語:中国―酒と人とのかかわり

服部匡延

中国では、古く殷(商)代の亀甲獣骨文、略して甲骨文と称するものに、楷書風に書くと「」となるような文字がしばしば登場する。この字は酉と彡との二つから成っているわけであるが、彡は酉の右側にあったり左側にあったりする。これをどう発音したものかいま一つはっきりしないが、意味は祖神・河神・岳神・星神などさまざまな神々を「まつる」ことであるらしい。酉はもともと象形の字で、頸が細く長い壺のような容器を表したものであるが、このなかで酒を醸成し、また酒を満たしたことから酒の原字ともされた。その器口から香気が洩れ立ちのぼるさまをあらわしたのが「」字で、これも酒の原字とされる。のつくりの彡もおそらく酒の香気を表したものであろう。

殷人は、とにかくこの酒を用いて神々を祭った。例えば甲骨に刻まれた貞問(おうかがい)の一つに「戊午トして宕貞(と)う。彫(まつり)して年(みのり=稔)を岳・河・?にのらんか」などとあるのだが、そのことを示している。その股はのちに周に滅ぼされることになるわけであるが、B.C.10世紀、西周の康王23年に鋳造された有名な「大孟鼎」の銘文の一節に「我聞くに、殷の命を墜(おと)せるのは、これ殷の辺・侯・田(の諸侯)と、殷の正百辟(官長)と、率(ひき)いて酒に肄(なら)いたればなり云々」、つまり股の連中は酒を飲みすぎて天命を失ったのである。それに引きかえわが周は「御事(祭祀・儀礼)に在りて、酒におよぶも敢てようことなく……烝祀(祭の名)すること有るも、敢てみだること無かりき」であったために天命をえ、天命によって天下を保有したのである、とある。事実関係はなお検討を要するとしても、とにかく何かといっては祭りをし祈りを捧げ、そしてそのつど、ある程度もしくは相当の程度、アルコールを愛用したことは事実だったにちがいない。殷代の彝器(宗廟の祭器)に酒器が多いといわれていることも参考になる。とはいっても、股人がはたして周人のいうように、神意をそこなうような飲み方をしたものかどうか注1)。殷に臣礼をとっていた周が、殷を放伐し奪権したことに対し、酒にことよせた自己正当化の論理ではなかったか。

それはさておき、ともかく殷人は加護するものであると同時に、まかりまちがえば加害にも及ぶそらおそろしい神々に対し、酒を介して神人合一感の充足を希求したにちがいない。穀霊の精粋である酒の霊力による精神の昂揚と陶酔のなかで、その充足の幸福感に浸ったであろう。周人は「われわれは殷人のような飲み方はしない」、酒と彼等のような付き合い方はしないといっているが、その言明自体、ひるがえせば神―酒―人といった構図は変わらず、自己抑制という道徳性の色あいを帯びてはいるものの、つづまるところ量の差でしかないことを反証する。酒を装置として神人合一の至福境を演出する点では両者同類といえよう。後代、人と神との距離が遠ざかるにつれて人が神にとって替わり、その構図が人―酒―人に変貌するに至っても人人合一の愉快感は、敬虔さの点では劣るにしても似たようなものといえるかも知れない。

ここで、かの文豪レフ・トルストイの言説をもじって言わせてもらえば、「しあわせ」な生活の様相はどれも似たりよったりなものであるが、「ふしあわせ」な生活の様相は千差万別である。とすれば、似たようなものはこのくらいにして、つぎには反転して不幸な様相における人と酒とのかかわりを採りあげてみよう。

天下統一の後漢の崩壊、魏を最大勢力とする三国の鼎立、そして晋による再統一へ。紀元3世紀百年にわたるこの時代は、戦乱に明け暮れる英雄たちの時代であった。別ないい方をすれば英雄個人の意志が法の時代であった。とりわけ魏晋の交替期は権力の座に近く位置し、それだけにまた警戒され猜疑され、へたをすれば抹殺されさえする、まさに貴族たちにとっては危険きわまりない時代であった。その危険に対して貴族たちの多くは、すでに内実を失い形骸だけに落ちぶれはてた礼教の皮を身にまとって迎合したが、心ある文人貴族たちは、彼等の偽善と、それを政治的に利用する権力と、あるものはそれらを白眼視しつづけ(例えば阮籍のごとく)、またあるものはそれからの韜晦に徹して成功し(例えば劉伶のごとく)、しかしまたあるものは韜晦に失敗して殺されもした(例えば?康のごとく)。総じていえば、彼等は反俗と不服従のともがらだといえるが、その反俗と不服従の武器でもあり旗じるしでもあったのが、その酒であり飲みっぷりであった。魏晋交替期のこの時代に、このような生きざまを示したのが「竹林の七賢人」であったが、上に列挙した阮籍と?康こそグループを代表する存在に外ならず、劉伶もまたそのメンバーであった。

阮籍は?康とともに曹魏建国の前後に生まれている。魏の二代目こと文帝の曹丕は後漢のラスト・エンペラー献帝の禅譲を受けて魏の初代皇帝となるわけであるが、次代の明帝曹叡の死(239年)を境に魏国内は曹氏一族派と重臣司馬氏派との対立抗争が激化し、結局は司馬炎が政権を奪取して晋朝が成立(265年)する。そのプロセスのなかで名のある士人たちは曹氏につくか司馬氏につくかの選択を迫られることになる。意志表明の次第いかんがいのちとりにもなる。こうした全過程を院籍も奮康も生き、そして死んだのである。劉伶もまたそれに近い。

阮籍は父の代から魏の名族であった。司馬昭は政治的おもわくから、息子の炎に阮籍の娘をめあわせようとはたらきかけた。それに同意することも拒絶することも、実力者司馬氏に対する決定的態度の表明になる。それはまた火中の栗を拾うことでもある。そこで彼は60日間酔いに酔い、はなしもできないほどに酔いつぶれることでみずからの非政治的姿勢を保守したと伝えられる。

劉伶の場合は自分でこんなことをいっている。「天の劉伶を生むや酒を以て名と為す(酒の権化だ)。一たび飲めば一解、五斗にして酲(二日酔い)を解く。」と。阮籍の深刻さとはことなり、彼はひたすら天真欄漫に酒をのみ愛したかにみえる。しかしはたしてそうか。彼とても当時の文人貴族が「魏晋の際に属し、天下に故多く、名士全うする者あること少なし。」という状況であったことはみていたはずである。彼は官途につかないまま天寿を全うしたという。おそらく彼は酒中にすべてを投げ込んで、みずからの存在を晦ましたのだと思う。

?康は洛陽の東市で棄死された。ときに年40(262年)。彼の妻は魏曹操の孫娘であったために政治的立場はいっそう困難であった。その困難を彼は音楽と酒(それに薬物)に没入することでくぐり抜けようとした。しかし、もってうまれた名流としての我が、友人呂安の不孝罪に対する弁護とういう倫理問題への介入、そして「湯・武を非とし、周・孔を薄んず」論による政治問題への言及へわが身を駆りたててしまった。彼の処刑という事実は、この時代の険悪さを典型的に示している、いいかえれば明哲保身がいかにいのちがけであったかを示している。酒を駆使することの深刻さが分かろうというものである。

世は酒につれるかそうかは異論ありとしても、酒は確実に世につれる。酒は逃げのエネルギーともなるばかりではなく、芸術創造のエネルギーともなる。もちろん人がそれにかかわってである。それを唐代を例としてみてみよう。

呉道玄といえば盛唐は玄宗皇帝の時代に、国都長安および東都洛陽を舞台にして絵画界に君臨した画家の一人である。彼の真蹟はいますべて失われてしまったが、その画風はわが正倉院に伝わる「麻布菩薩像」という白描画に窺うことができる。リズムとスピード感あふれる描線を身上としたものであったらしい。記録によれば、長安・洛陽のほぼ寺観という寺観に300余間の壁画を画いたことになっている。多作家である。その彼が伝によれば「酒を好み使気す(気分を引きたてる)。毫を揮わんと欲する毎に、必ず酣飲(したたかにのむ)を須う。」とある。酒をテコにして創造精神を燃焼させたのである。「燃える」画家、「燃える」芸術と評されるゆえんである。

唐代の芸術家もまた酒を愛飲した。呉道玄は書法においては大成するにいたらなかったが、はじめ志を書に立てたとき師事した張旭も、酒を飲んで酔ったあげくは大声をあげて走りまわり、それから揮毫する書は変化きわまりなく「神助あるがごとし」と称賛されたという人物で、これまた「燃える」書家であった。世に「張?」と称された、と伝える。

年代はやや降って唐も8世紀の末に王黙なる画家がいた。人となり「風?にして酒狂なり。」酒を飲むと「酔後に頭髪を以って墨を取り、絹に抵(ぶつけるように)して画」いたという。画蹟が伝わらないから具体的には分からないが、のちに?墨と呼ばれる、水墨画の一種の祖型らしい。

このほか唐代では、文学の世界において「李白一斗詩百篇、長安市上酒家に眠る」と「飲中八仙歌」(杜甫)に吟われた李白以下、赫赫たる酒仙が山脈をなしているが、いまは省略する。

要するに、宗教的であった上古の酒と人とのかかわりが祝福されたものであったとするならば、魏晋の酒はむしろ自虐の苦海にさえみえる。それに対して盛唐の酒と人とは、そのあいだに悲喜哀歓のなにがあるにせよ、明澄活漢に輝いてみえるのである注2)

<注>

1.股人は祖霊を最高者としたが、周人はそれをも超越する「天」の観念を打出すこと、つまり股とは異る価値観をもって股を断罪した。股人は股人みずからの神一祖霊には忠実だったにちがいない。

2.一般に中国人と酒といえば陶淵明をみすごすわけにはいかないのであるが、魏晋交替期とは時代がずれるので、ここでは触れなかった。

参考文献

本稿の内容に関連のある文献のうち、読み易く、また手にし易いものを以下に掲げておく。

『甲骨文の世界一古代股王朝の構造』白川静著 平凡社 昭和47年2月初刷(『東洋文庫』204)

『金文の世界一殼周社会史』自川静著平凡社 昭和46年4月初刷(『東洋文庫』184)

『三国志V不服従の思想』花村豊生・丹羽隼平訳 徳間書店 昭和54年11月初刷

「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係―1927年7月広州夏期学術講演会での講演―」 魯迅述『魯迅評論集』(竹内好編訳 岩波書店 1981年9月初刷)所収

『中国の文人一「竹林の七賢」とその時代一』王揺著 石川忠久・松岡榮志訳 大修館書店 1991年11月初刷

『歴代名画記』1・2 唐・張彦遠著 長広敏雄訳注 平凡社 昭和52年3・7月初刷(『東洋文庫』305・311)

初出誌情報

服部匡延 1992「酒物語:3.中国―酒と人とのかかわり」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第2号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.116-118.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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