映画:イランの映画―キャーロスタミーの映画―

山田 稔

1.ノートのサイン

昨年('96)の暮れもせまったころ、研究室の語学演習の授業にMさんとNさんが、一見普段のすました調子でやってきた。いつもの様子ながら、どこかうれしさをこらえているといった表情で、しかしなにげなくノートの紙片をわたしにみせた。

「これはなんだ?えっ、サイン!」

「キヤーロスタミー監督のサインです」

彼女たちが、この時期に東京で開催されていた「'96イラン映画祭」にでかけることは聞いていたが、直筆のおみやげまでもらってきたのだ。

「どうして色紙を用意しなかったの」

ノートの紙片だけではなんとも惜しいことをした、と言ったわけである。たまたま研究室の棚の隅に、大砲の大きな黒い弾にちょんまげをつけたタンクタンクローの色紙がたてかけてある。彩色もので、もちろんサインもある。わたしは、サインをもらうことをただちに色紙にむすびつけ、サインをもらう以上は、といった硬直した意識に囚われていたのである。キヤーロスタミー監督は子供の絵本の挿絵なども手がけたことのある人だからなおさらである。

「映画祭で監督に会えるなんて思ってもいませんでした」

予期せぬ出会い、そこにはつくろいがない。思いがけず、ただ監督に一目会えたことだけで、あせるようにして持ちあわせのノートを差し出す―色紙などないから、いっそうときめきの出会いが光っている。キヤーロスタミー監督の持ち味である映画術のスタイルは、そんななんでもないような場面や瞬間をさりげなく、しかし感動的にとらえるところにあるのではなかろうか。

彼の名作「友だちのうちはどこ」でも、一冊の大切なノートが2人の少年の友情を結ぶ重要なかけ橋になっている。友だちのノートを間違えて家に持ちかえってしまった少年アフマドは、それを返そうと隣のむらまでジグザク道をかけのぼってゆく。友だちネェマトザーデは「明日ノートに宿題をしてこなければ退学だ」と先生に言われているのだ。ところが隣むらの友だちのうちがどこにあるのかわからない。思いつめたアフマドはあたりが暗くなるまであちこち尋ね歩く。途中友だちのノートがこんな目にあう。

ドア商人アガ・ハン
坊や、その紙を一枚くれないか。
アフマド少年
僕のじゃないんです。
アガ・ハン
一枚でいいんだよ。
アフマド
(困りきって)友だちに返さなくちゃならないんです。
アガ・ハン
一枚くれよ。一枚だけ。
アフマド
先生に叱られる。
アガ・ハン
叱らないさ。大丈夫。
少年のおじいさん
大人の言うことを聞け。
アガ・ハン
ノートを貸しな。(ひったくるようにノートをとりあげてしまう)
アフマド
叱られるよ。
アガ・ハン
一枚だけだ。(乱暴にページをめくって)先生だってわからないさ。ほら、これだけだ。(一枚ページをちぎってしまい)全然わからないだろ。返すよ。(いったんノートをアフマドの手にもどすがふたたびとりあげて)いや、ノートを下敷きにしよう。(領収書を書く)

友だちの大切なノートの紙片が、おとなの勝手で破られてしまう。心配ではらはらした少年の顔は、真迫ではなく真の表情である。少年は友だちのノートを自分のミスで持ちかえってしまったのだと本当に信じているのだから(現実を映画にとりこんでしまう監督の見事な仕掛けがある)。ノートの紙片がおとなの世界をかいまみせるのである。少年は、やっとのことで友だちのうちに辿り着くが、その途中で、道案内にたってくれたドア職人のおじいさんから、泉からひいた水道の脇に咲く花を一輪もらいノートにはさんでおくように言われる。破られたノートの一片を償う一片の押し花である。少年は、だが、なぜか、ノートを友だちに渡さずにまた自分のうちに持ちかえる。そして夕食も抜きで宿題をやる。翌日のクラスにアフマド少年はおくれてぎりぎりにやってくる。あわてて友だちの前に白分のノートを置きちがえてしまうが、なんとか友だちのノートに先生の「0.K」のサイン。サインの脇には押し花がある。

この映両は、イラン版「走れメロス」といったところか。ストーリーはじつに単純で、映画を見れば余計な解説は不要というものだろう。ただ、あたりまえの一冊のノートの紙に宿題や数字やサインが書き込まれ、押し花がはさまれ、そこにノートをめぐる人と人とのつながり描かれるが、この白紙のノートがキヤーロスタミー監督の映画術の入れ子になっているのが印象的であった。それで、MさんとNさんが、ノートの紙片にもらった監督のサインもこの映画の延長のうえに見えてきた。虚実の境を渾然とさせるような、監督の不思議なテクニックの効果であろうか。

Mさんのもらったサインには「ペルシア語を話すお嬢さんへ」と書いてある。Nさんがペルシア語で、監督の映画はすばらしい、と言ったら「そうおっしゃるご自身こそすばらしい」とお返しがあったという。日ごろの地昧な語学学習の努力がむくわれる思いのするひとときであっただろう。

2.単純さについて

キヤーロスタミー監督の映画は、派手な活劇や大衆にこびる卑俗さとは無縁である。つくりものの物語性やドラマ性からもほど遠い。身のまわりのささやかな出来事をとりあげるだけである。シンプルそのものである。それは、彼が小津安次郎監督の作品に目を開かれたと言っていることからもうかがえる。ふつうの人のふつうの人生がおもしろい映画になりうるという確信である。しかし、これといってかわりばえもしない、一見単純にみえる人生の真実を映像に捉えることは、ことほど単純ではないだろう。そこに詩人としての監督の天性がはたらくはずだ。わかりきっていると思っているあたりまえのもののなかに不思議や違和や驚きを、日々あらたな感動のなかに発見する精神のしなやかさを彼の映画は教える。「ことば」はものの真実を隠蔽したりもするが、また同時に新しい世界を開示する。キヤーロスタミー監督は、一本の樹、一冊のノート、一片の花に、普通名詞でくくれないかけがえのない瞬間のかたちを映像であたえようとする。「普遍」という抽象的範疇ののっぺらぼうな無感動から、日常のくらしの土壌に根をはった「固有」の意味の奪同をはかろうと苦闘している。すりぬけてゆく現実のなかで、「他のどこにもない、そこでしかありえないという一瞬」に全神経を集中させるのだ。

さて、私は、キヤーロスタミー監督の映画を見て、自分のなかの幼年時代にひきもどされた感じである。ちょうど今読んでいる阿部昭の短編に描かれている世界が、こちらの思い込みかもしれないが、キヤーロスタミー監督の映画の世界と資質的に通いあうものがあると感じたのである。

3.青少年知育協会

「友だちのうちはどこ」をはじめ、キヤーロスタミー監督の映画には素人の少年たちがこのんで起用されているが、彼の処女作「パンと裏通り」(短編、1970)にその原型があるようだ。若い世代とのかかわりは、青少年知育協会(1964設立)での映画活動(映画部門1968~94)にはじまる。この協会はもともと、文化人の非政治化を目的にして設立されたものだが、ユネスコの支援もあって、政治と線を画したところで映画芸術の質的向上をめざすニューウェイブ映画人の工房になったところである。パフラーム・ベイザーイー、マスウード・キーミヤーイー、アミール・ナーデリー、キヨーマルス・プールアフマドなど、現在第一線で活躍している監督の多くがこの工房につながっており、キヤーロスタミー監督はその中心的人物である。もちろん、知育協会はそれ以前から絵本や童話や情操教材をてがけており、この監督も20代にグラフィック・デザインをやったり絵本づくりをしている。そもそも、この協会の映画部門の発足は、児童アニメの制作を動機にしていたという。こうして知育協会は、教育映画や短いドキュメンタリーで腕をみがく若い映画人、児童作家や挿絵画家や美術家のつどうユニークな芸術家むらに発展していったのである。映画部門は、モスクワ・ボリショイ・サーカスの興行収益を基金として運営されていたので、商業主義に毒されない実験的な試みや国際フェスティバルへの意欲的な参加も可能であった。映画工房には世界の映画資料が蒐集され、映両人の国際交流や研修もはじまるが、文学とくらべて、映画はより外に開かれているメディアである。文学は、よほど素晴らしい翻訳がないかぎり、ことばの障壁によって、それを母語としないものには閉ざされている。あるいは、辞書を脇に悪戦苦闘を強いられるのだが、映画は直接的に視覚・聴覚にうったえる。「キヤーロスタミーの映画はとてもいい。わたしはむずかしいことはいえないが、そのよさはみればわかる」(黒沢明)のである。

4.イランの'70年代

1970年代前半ころまでは、イラン映画の存在はほとんど世界に知られなかった。王政期のイランでは、娯楽中心の外国映画のふきかえが多く、イランものも「フィルム・ファールスィー」といわれる安直なソープオペラばかり目立っていた。イランものにあきたらない庶民はインドの大衆映画に足をはこんだ。肌をだし官能的な媚態をさらすインド女優の看板もそのころはあたりまえのことだった。イラン初のトーキー映画「ロル族の娘」が、じつはインド映画「ダークー・キ・ラルキー」の焼き直しで、しかもボンベイで制作された(1932)ことからしても、イラン映画は映画先進国インドの後塵を拝していたのであり、インド映画の商業性になかなか太刀打ちできなかったほどである。イラン・イスラーム革命後は、映画におけるエロティズムは厳しく排除されているが、昨年パキスタンに行き古都ラーホールの歓楽街の映画館を飾っている何十畳分のインド的映画のけばけばしい(?)看板を目にして、これもまたイスラーム国か、と妙な感慨を覚えたことがある。王政期の映画は、ふきかえであれ、検閲でフィルムが飛んで、一種シュールな映画に変わってしまうのはあたりまえだった。革命後も日本映画「おしん」のなかで、結婚式のお神酒が、水に変えられたそうである。無声映画の時代には、たとえば日露戦争のドキュメンタリーの上映で、観客が立憲派支持とみれば、「日本万歳」とやり、専制君主モハンマド・アリーの用心棒のコサック軍団がにらみをきかせているとみるや、舌の乾かぬうちに、「ロシア万歳」とやるのが活弁の仕事だった。あるフィルムが検閲で押収さたとき、理由はきわめて簡単であった。“警官の襟がはだけている”というただそれだけのことだった。わたしは、それでも、つぎはぎのような映画をよく見に行った。ヒヤリングの練習をかねてもいた。観衆もなれたものでカットされたフィルムの部分をあれこれ想像しては楽しんでいたふしがある。革命後の映画館に入ったことはないが、王政期にはまずタンタタターンと国歌の曲がながれ、帝王のなかの帝王(シャーハーンシャー)が、技術の最先端をゆく石油コンビナートの視察とかの場面で、国民に手を振る颯爽とした姿がスクリーンに映し出される。その間、観客は全員総立ちで直立不動の姿勢をくずさない(わたしだけ座っているわけにはいかなかった)。しかし観客はしたたかなもので、その儀礼が終わるや、スイカやヒマワリや松の実やカボチャの種をせっせと口に運んでは、時には野卑な笑いもまじえて、ペッペッベッとその殻をところかまわず吐きちらしているのである。映画が終わって外に出る時は、殻に足をとられてひっくり返るところだった(もちろん高級映画館のことではない)。そのころの映画で鮮明な記憶に残っているものはダーリユーシュ・メヘルジューイー監督の「牛」(1969)である。これは日本での映画祭でも上映され好評を博したものだが、イラン映画の常識をうちやぶり、イラン映画に金字塔をうちたてた初の社会的リアリズム映画とみられている。全財産であるたった一頭の牛を盗まれた主人公が、発狂してみずからが牛になり、むら人に縛られて、町の病院にはこばれる途中、抵抗し暴れて逃げ出し、最後に崖から落ちて死んでしまう、という筋の映画である('71ヴェネツィア・国際批評家賞受賞)。これは当時注目のシナリオ作家、ゴーハル・モラード(=G.H.サーェディー)の作品の映画化であり、その小説や脚本を読んでいたわたしには文学との接点としてとても興味深かったのである。またテヘランでの映画祭に来ていた故川喜多かしこ女史がこれに目をとめ、是非日本で上映したいと洩らしていたのを思いかえすと、これが日本人によるイラン映画の最初の発見ではなかっただろうか。

5.映画と文学

知育協会が芸術的創造の中心になっていた、イランの'70年代は、それに先行するようなかたちで、文学活動が著しく活性化し、かつてみられなかった文芸の高揚期を画している。オイルマネーによるやみくもな近代化政策は、華やかな外見のうちに、さまざまな社会的歪みをうみだしたが、その矛盾が深刻になるほどに、都市部の知識人・青年層を主体とする抗議運動が高まった時期である。作家J.A・アフマド(1923~69)の「西洋かぶれ」批判、哲学者シャリーアティー(1933~77)の「自己への回帰」などは、植民地的な文化的根なし草を警告する危機意識の表明であった。いきおい、文学者たちは反体制の旗幟を鮮明にし、それだけ検閲や発禁によるしめつけもはげしくなってゆく。この時期の文学者らの政治化やイデオロギーの潮流を、映画人が見ていないはずはない。キヤーロスタミー監督もそれをじっと観察していたにちがいない。事実、知育協会でもたとえば、サマド・ベフランギーの革命童話などが現れてくるのである。しかし、鋏によってフィルムがずたずたにされる検閲に逆らうには、映画という媒体にとって犠牲が大きすぎる。「検閲されて上映されないとわかりきっている映画をとるのは馬鹿げている」として、キヤーロスタミー監督は権力の許す可能性ぎりぎりのところで創作する道をえらんでいる。シンプルな映画が少しずつ未来を良くするのだと語っているが、シンプルな表現とは、政治的季節の声高な一義的言語の限界を見据えたうえに見いだした方法でもあろう。監督自身はへたな理屈をこねないで、ひたすら白己の感性に忠実であるだけなのかもしれない。しかし、彼にとって単純さこそそこから豊かな関係性と多義性をくみだす源泉であるはずだ(シンプルで喩にみちた詩的言語――それはペルシア語の特性でもある)。わたしがこの監督の作品に思いがけないカタルシスを感じたのは、'60~'70年代の文学に過剰な社会意識や苫悩をみてきた反動でもあったと思う。ほぼ同時期にありながら、映画と文学は文芸の明暗をわけるような対照をみせている。キヤーロスタミー監督の映画は、“知識人”の目と意識から離脱している。すべてのイデオロギーを削ぎおとしている。そして単純な日常性のなかに、たとえば少年の目を通してゆるぎない批評の視点を――喩としてあるいは控え目なユーモアとして――もちえている。たんなるルーティーンの日常への退却ではない。激動する時代のなかで、検閲や宗教的規制やその他もろもの制約をむしろ逆手にとるようにして、舶来の部品をとりさり、贅肉をおとし、虚飾を去って、限界としてあらわになってくるシンプルな生存の原点の確認であり、意志的な眼差しである。彼は、敬愛する詩人メフディー・アフヴァーネ・サーレスがロンドンのあるデパートをくまなく見てから、「素晴らしかったよ。…でもこういう物がぼくには必要じゃないということがうれしいんだ」と言ったことを回想している。彼の言う「シンプル」は苦渋にみちたイランの現実がうみだしたもっとも良質な部分だろうと思う。

〔参考資料〕

K.プールアフマド「そして映画はつづく」晶文社、1994。

M. Mehrabi「Tarix-e sinema-ye Iran」Tehran, 1993。

'96イラン映画祭パンフレット東京、1996。

イラン映画史略年表
 
映画史
政治・社会
1900シネマトグラフ〔映写機〕=王の洋行土産カージャール朝(1796~1925)
04最初の映両館。数分のどたばた映画
ロシア製の覗きからくり(異国の町)
ホメイニー誕生(1904)
07日露戦争ドキュメンタリー
恣意的な活弁―「ロシア万歳」(専制派)
「日本万歳」(立憲派)
イラン立憲革命(1905~11)
12各地に映画館が普及、民衆化のきざし 
26ドキュメンタリー(レザー・シャー載冠式)パフラヴィー朝成立(1925)
30イラン最初の無声映画制作 
32ボンベイで、イラン初のトーキー映画が制作される(ロル族の娘)。インド映画の影響 
36独裁による表現の封殺。映画界沈黙(~'48)国名がペルシアからイランに(1935)
  レザー・シャー、南アに亡命。モハンマド・レザーが王位に(1941)
レザー・シャー南アで客死(1944)
45イラン初の編集・録音スタジオの設立。エスマーイール・クーシャーン(イラン映画の父
48イランで初めてトーキー映画撮影
1953~63「フィルム・ファールスィー」(安ぴかの大衆娯楽映画=ソープオペラ)の全盛
作家ヘダーヤト、パリで自殺(1951)
53初のカラー映画撮影。声優のアフレコはじまるCIAによるクーデターでモサッデク逮捕(1953)
57イラン初のテレビ局が放映開始 
58シネマスコープの出現 
59イラン映画協会設立(ファロック・ガッファーリー)ホメイニー逮捕、反政府暴動(1963)
64児童青少年知育協会設立、その映画部門は68年に発足
スーパー・アイドル・スターの出現(ファルディーン)
ホメイニー国外追放(1964)
65「煉瓦と鏡」(エブラーヒーム・ゴレスターン監督)リアリズム映画への転換点 
69「牛」(ダーリユーシュ・メフルジューイー監督)ニューウェーブのさきがけ
第一次イラン映画黄金期(70~74)
イラン作家協会設立(1968~1970)
  石油値Lげ強行。オイルショック(1971)
78アバダンで映画館放火事件。数百人死亡 
  国王亡命、イラン・イスラーム革命(1979)
イラン・イラク戦争(1979~88)
82イスラーム指導省によりファーラービー映画財団設立 
86「駆ける少年」(アミール・ナーデリー監督)第二次イラン映両黄金期の幕開け 
87「友だちのうちはどこ」(キャー・ロスタミー監督)イラン映画が世界の注目を浴びる 
  ホメイニー死去(1989)

初出誌情報

山田 稔1998「映画:11.イランの映画―キャーロスタミーの映画―」 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所編『ASIA 21 基礎教材編』 第7号 大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 pp.113-118.

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ここに公開している文書は、現代アジア研究所編『ASIA 21』中の「アジア諸民族の生活・文化誌」に寄稿頂いたものを、その当時のまま転載させて頂いたものです。 詳しくはこちら

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