市・市場:横浜中華街
臼井佐知子
中国の人々の歴史は移動の歴史であるといっても過言ではない。周辺民族の侵入を含めた戦乱によって、洪水などの災害によって、地方官僚としての赴任のために、科挙試験の一環としての学校入学のために、そして行商のために、人々はあるいは親族とともに、あるいは家族とともに、あるいは単身で、祖地すなわち先祖代々住んできた土地を離れ外地に赴き、新たな土地に僑寓(籍を移さずに居住すること)した。言葉も異なれば習慣も異なった新たな土地で働き生活していくために彼等が頼りとしたのは、新たな土地に住む、祖先を同じくするという共通の認識をもつ同宗ないし同族の人々や同郷の人々であった。彼等は新しい土地での生活が安定すると家族や親族を呼び寄せた。しかし、祖先の墓がある祖地との関係は維持され、祖先ないし祖地を同じくするというアイデンティティは外地にあってむしろ強化された。とりわけ商工業が発展した明代(1368年~1644年)から、蘇州などの都市には同郷者の仕事や生活に便宜をはかるために同郷会が組織され会館や公所が設けられた。時代によって機能に一定の変化はあったものの、大陸では中華人民共和国の成立までこれらの組織は存続し機能した。そして、外国に赴きそこに僑寓する人々も同郷、同族であることによってアイデンティティを共有し同郷会などを組織した。これらは現在も一部形を変えつつ存続し機能している。ここで注意すべきことは、日本人が多く集団ないし組織を信頼し、その内部に身を置くことによって安心を得るのとは対象的に、中国の人々は個人と個人との間の信頼関係を最も大切なものとすることである。従って、中国の人々の同郷、同族意識は、個人と個人の信頼関係の契機になるとはいえ、排他的、閉鎖的なものではない。
中国の人々の対外進出の第1波は明代中期からであり、第2波は19世紀後半からである。第1波の主な進出さきはアジア問交易の中心である東南アジアであったが、第2波は東南アジアに加えて、アメリカ大陸や日本であった。かれらは外国に僑寓する中国人の意味で「華僑」と称された。1992年現在の世界の華僑総人口は3224万6000人、その内訳は東南アジア2827万8000人で87.7%を占め、日本は19万5000人で0.6%である。但し近年、外国に移ってから2代目、3代目になり、国籍もその国に移し、祖地への帰属意識も稀薄化してくると、「華僑」と区別して自ら称して「華人」という言葉を用いるようになってきている。しかし、「華僑」に対する「華人」という呼称は、他の民族と軋礫の多い東南アジアで現地に溶け込むために用いられるようになった呼称であって、原則的には国籍の移動の有無によるが、必ずしも厳密に区別されて用いられてはいないようである。
中国の人々が横浜に住むようになったのは、1859年に函館、新潟、神戸、長崎とともに横浜が開港されてからである。開港とともに設けられた外国人居留地の一角に中国人による地区がつくられた。この中国人居留地には、1872年にはすでに1,000人の中国人が居住していたといわれる。その後居住人口は増えていき、1880年頃には約2,500人へと増え、現在の中華街大通り、関帝廟通り、南門通り付近に集中して住むようになり、いわゆる「南京町」が形づくられた。「南京町」すなわち中華街に住む中国人は1890年頃には3,000人を超えた。その後、日清戦争が勃発すると一時激減するが、1899年には再び約3,000人に戻り、1903年には5,000人の大台にのった。さらに人口は増えつづけるが、1911年に中国で辛亥革命が起こると帰国者が急増して人口は減少し、関東大震災が発生するまで4,000人前後で推移した。関東大震災によって中華街は壊滅的な打撃を受け、約2,000人の犠牲者を出した。このとき朝鮮人虐殺事件が起きたが、朝鮮人に間違えられて犠牲になった中国人も少なくないという。1928年頃には中華街も復興し、人口も4,000人前後に回復した。しかし、1937年日中戦争の勃発にともなって帰国者が続発し人口は半減した。1941年に太平洋戦争が始まると、残留していた中国人は居住場所を限定され、外出も許可が必要となり、厳しい監視下に置かれることになった。また、戦災によって街自体も大きな被害を被った。
現在の日本の華僑人口と中華街がある横浜市中区山下町に住む華僑人口は右の表の如くである。右の統計表でみる限り、横浜中華街の現在の華僑人口は2,000人にすぎないということになる。但し、他の地区に居住し中華街を就業の場にしている者がほぼ同数いるとみられ、また、日本に帰化した華人はこの数値には入っていない。
日本の華僑人口(1992年現在) | |||
東京都 | 72,958人 | 愛知県 | 8,278人 |
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神奈川県 | 17,915人 | 千葉県 | 8,182人 |
大阪府 | 16,352人 | 福岡県 | 4,589人 |
埼玉県 | 12,735人 | 京都府 | 4,187人 |
兵庫県 | 12,491人 | 茨城県 | 2,944人 |
横浜市の華僑人口(1994年現在) | |
横浜市全体 | 12,273人 |
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中区以外 | 7,996人 |
中区 | 4,277人 |
〔山下町 | 2,000人〕 |
その他 | 5,642人 |
外国に華僑として出ていった中国人には所謂「三把刀」に携わる者が多かったといわれる。「三把刀」とは、剃刀(かみそり)、菜刀(ほうちょう)、勇刀(はさみ)、すなわち理髪業、料理人、仕立屋の3つの職業を意味する。しかし、少なくとも横浜中華街においては、実際には大正、昭和になっても中国料理店は10店程度にすぎず、ここに住む中国人は貿易など100を越える業種に従事し、日本人に西欧近代文化の情報を提供した。戦後、食物をはじめとして物資が不足した「昭和20年代」には物資の豊富な中華街は脚光を浴び、95店もの店舗が開業し、高度成長期と日中国交回復が重なった「昭和50年代」にも90を越える店舗が創業した。中華街と称される地域の面積は約400メートル四方であるが、1994年の数値では、そこに537の店舗がある。そのうち明治・大正時代からつづいている老舗は32店舗である。業種別では、飲食業275店舗(51.2%)、卸売業9店舗(1.7%)、小売業141店舗(26.3%)、卸・小売業5店舗(0.9%)、製造・卸売業8店舗(1.5%)、製造・小売業17店舗(3.2%)、貿易業1店舗(0.2%)、サービス業48店舗(8.9%)、その他33店舗(6.2%)である。
飲食店275店舗のうち、中国料理店は175店舗である。中国料理店の種類をみてみると、広東料理系が圧倒的に多く128店を占める。このほか、上海料理系11店、北京料理系10店、四川料理系7店、台湾料理系4店、海鮮料理系、北京・四川料理系各3店、広東・海鮮料理系、上海・揚州料理系、京蘇料理系、広東・四川料理系各2店、湖南料理系、華南料理系、広東・上海料理系、北京・上海料理系、その他各1店である。この数値は当初横浜居留地に住む人々の多くが広東省出身者であったという歴史を反映している。また、1962年には広東省出身者の比率は全体の55.1%まで低下しているが、このとき第2位の江蘇省が12%にすぎず、その後広東省出身者の比率がさらに減少したとしても現在も広東省出身者が相対的に多いことには変わりはない。1994年には5階建ての留日広東会館が完成し、ここに現在広東同郷会事務所が置かれている。このほかの同郷会組織としては、横浜台湾同郷会、横浜福建同郷会や三江公所などがある。ちなみに、長崎の華僑は福州、南京、寧波、広州および江南各地の出身者が多く、なかでは福建省出身者の影響が強いといわれる。
1953年、横浜元町とともに中華街を復興させようとする官民一体の「中華街・元町振興会」が結成され、中華街のシンボルとして牌楼(現在の善隣門)が造られた。さらに、中華人民共和国政府(大陸)と中華民国政府(台湾)との経済交流を柱とする関係改善は、それまで対立し中華街発展の足枷ともなっていた2つに分かれている華僑総会の関係改善ももたらした。1993年、中華街で店を営む店舗で組織されている「中華街発展会協同組合」は「街づくり協議会」を発足させたが、この「街づくり協議会」には、前出の留日広東会館や各同郷会、横浜華僑婦女会などの各組織のほか、2つに分かれている華僑総会も参加し全面的に支援することを約束している。今日ではむしろ華僑総会は両政府の関係改善と経済交流に対して積極的な働きかけをおこなっているようでもある。
戦前において、中華街は中国人が住み、生活をする場であった。商店は中国人に生活や仕事のための物資を供給することを目的としていた。しかし、戦後、その対象をむしろ日本人に向けるようになった。今日横浜中華街を訪れる客は年間1800万人にものぼる。また、客のみならず、中華街の商店経営者にも華僑、華人のみならず、多くの日本人が加わることになった。最近、中華街で長年日本蕎麦屋を経営していた日本人がより客の集まる中国料理店に改装したということを報道していたが、このことは横浜中華街の今日の変化をよりよく現しているといえる。そして、現在中国料理店の食材や青物店の中国野菜は、特殊な食材を除き、多く日本の一般市場から仕入れられたり、日本国内に独自に専門の農場などを設けて供給されている。中華街は華僑が居住し、生活する街から、中国大陸、台湾との繋がりを維持しつつ、日本社会の一部として、料理を始めとした申国文化を商品として日本人に提供する街へとその性格を変化させたといえよう。
[注]
横浜中華街についてはいくつかの著書が出版されている。その中で菅原一孝著『横浜中華街探検』(講談社、1996年2月)は、その歴史と現状をわかりやすく解説しており、一部の経験や又聞きにもとつく単なる情報本とは異なる良書 である。本文中の横浜中華街の具体的変遷、人口・店舗などの数値、組織に関する記述は概ね『横浜中華街探検』の記述にもとつくものである。